ALS 筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis)
筋萎縮性側索硬化症は、身体を動かすための神経系(運動ニューロン)が変性する病気です。変性というのは、神経細胞あるいは神経細胞から出て来る神経線維が徐々に壊れていってしまう状態をいい、そうすると神経の命令が伝わらなくなって筋肉がだんだん縮み、力がなくなります。しかもALSは進行性の病気で、今のところ原因が分かっていないため、有効な治療法がほとんどない予後不良の疾患と考えられています。
一般社団法人日本ALS協会
仕事のご縁で知り合った方からとあるYouTubeの配信動画を教えて頂いた。
https://www.youtube.com/live/ZNH5uHeC0sE?feature=share&t=569
この動画でALSを発症しながらも音楽活動をされている方、起業して絵本を出版された方を知ることができた。
この病気の発症率は10万人に1人ほどらしく、割合的に多くの方が生涯関わることなく暮らしていくのだと思う。
今回紹介頂いたこの動画を見て、私は父親を思い出した。父もALSを発症して亡くなっている。
ブログを書く際にはPREP(結論・理由・具体例・結論)を意識すると学んだばかりなので、先に結論を言うと、「ALSになった父と私との日誌」となるなので、今回のブログを誰にどう届けたいとかは全く考えていない。
ただの回顧録として残しておきます。
父の話をするには私の少年時代を掻い摘んで話さねばならない。
私の育った環境は少し変わっていて、物心つくころにはプレハブ小屋というか、畑の近くによくあるようなちょっと大きい物置みたいなオンボロ小屋(和式ぼっとん便所完備)で母と暮らしていて、曾祖母が良く面倒を見にきてくれていた。
父は年に数回家にいたような記憶だ。恐らく出稼ぎにでもいっていたんだろうと思われる。
典型的なアルコール中毒で酔えばうるさいし、あまり家にもいないものだから好きではなかった。
なので、家にいないことはむしろ良かったと思っていた。
小学校にあがる少し前から母方の祖父母の家に住むようになった。
たぶんこのあたりで離婚していたんだろう。
そして小学校に入ったか入らないかくらいのある晩に、母と祖父が口論をしていたのを覚えている。
翌朝早くにトイレへ行くと、荷物を持って家を出ていく母を見つけ私は一緒に行こうとしたが平成になってもサザエさん一家の家長宜しくナミヘイスタイルを貫く祖父に抑え込まれひたすら号泣した。
それからは祖父、祖母、曾祖母に育てられることになる。
母親は稀に電話があったり、姿を見せることがあった。
こんな感じで、父も母も私の少年時代にはあまり登場しない。
かといって悪い環境ではなかった。
田舎なので、子供というだけで回りの大人(特に老人)は優しかったし、親戚でもないのに近所の家のほとんどには出入りできたし、祖父母の家に移ってからは裕福とは言えないが水洗トイレにアップグレードしていた。
問題があるとすれば母方の祖父母の家と、父方の祖父母の家が徒歩圏内で、両家の仲はあまり良いとはいえないことだった。
どちらも自分を大事にしてくれているのは子供ながらに分かるのだが、お互いの息子、娘が可愛いとなれば、離婚後の相手のことを良くいうことはなくとも、その逆はあるのだ。
さらに複雑なことに父と母は離婚後それぞれ再婚していた。
母は再婚後も戻ってはこず、母と私は名字が違うようになった。
父とは相変わらずあまり会うことはなかったが、父の再婚相手はとても良い人で、前妻の子である私が家にいっても良くしてくれた。
だいぶ大人になってから分かったことだが、この義理の母は私を引き取っても良いと考えてくれていたようだ。
めちゃくちゃありがたいことだったが、当時それを言われていたら、父が好きでなかった私はきっと断っていただろう。
そして父の家庭には子供ができて、私には義理の兄弟が出来た。
年の離れた兄弟というのはとても可愛いもので、私は夢中になったが、兄弟たちが段々大きくなると、とても答えずらい質問をしてくるようになり、私は答えに詰まるようになっていった。
例えば「なんで兄弟なのに一緒に暮らしてないの?」なんて。
私が答えに詰まりだしたくらいだったか、父が入院した。
元々あまり会わないようにしていたが、入院となると顔を出さないわけにはいかない。
気は乗らなかったが見舞いにいった。というか連れていかれた。
病室で父と義理の母が待っていた。
私がはいると義理の母が私がきたことを父に伝えた。
父はなんだか小さく見えたし、喋ることができないらしく、文字盤に指を乗せて意思を伝えるのだという。
義理の母は父の枕の下から千円札を取り出し、「きてくれてありがとう、これはお父さんから」と言いながら私に渡してきた。恐らく事前に打ち合わせしていたんだろう。
そして父は震える指を文字盤においていった。
『とまってけ』
泊まっていけ?
冗談じゃない。こんなとこに泊まるもんか。
記憶にある父との意思疎通はこれが最後だと思う。
結局私は適当な言い訳をして病院へ泊ることなく祖父母の家に帰った。
今にして思えば、まだ幼かった私や兄弟たちに言っていなかっただけで、この病気はもっと前から発症していたのかもしれない。
けれど、当時の私にとって10代という年齢はただの消化試合に過ぎなかった。
家庭環境が悪くないとはいえ、一般的なものでないことは明らかだったし、両家にとって良い孫であり続けるというのは、両家ごとに顔色を変えるということでもあり、それはそれで結構疲れるものだった。
私は1年ごとに1年前の自分より体も、精神も、知識も成長していることを実感し、それは自分がこの環境から抜け出すまでの期間が縮まったということを意味していた。
早く大人になって、自由になることが目的だった。
だから、実の父親のもしかしたら初めてのちゃんとした願いすらも平気で断れたのかもしれない。
退院後の父は父方の祖父母の家で寝たきりの生活となった。
たまに顔を出すと義理の母が父の看病をしながら兄弟たちの面倒を見ていて、それが日常になっていた。
あるとき弟が外で遊んでいるとき車にぶつけられたらしい。
それを聞いた父はほとんど動かない体をふらふらと動かし、ぶつけた運転手に殴り掛かったのだという。
私は実際に見たわけではないが、親戚の集まりがあるとよく話すネタのひとつとなった。
もし、車にぶつけられたのが私だったら?
それでも父は、あの体をどうにかして動かして運転手に殴り掛かったのだろうか。
私が父を避けていることは父も分かっていたはずだ。
それでも泊まっていって欲しいと願った父を拒絶した私だったら?
少しして日常に少しの変化が出た。
父の家にパソコンという近代機器が設置されたのだ。
この頃になると父は最早指を動かすこともできず、目を動かすのが精一杯となっていた。
このパソコンは目の動きを感知して、文字盤のように意思を伝えることができるものなのだといっていたが、私はその近代機器が活躍したところを見たことがない。
私は父の家にいくとまず寝たきりの父の目を見て軽く挨拶をし、数分その場に立って物思いにふけったフリをしてから兄弟たちと遊ぶ。そういう日課が出来上がっていた。
父の目が動かなくなるまでそれほど時間はかからなかった。
目も動かせなくなるといよいよ意思疎通もできず、何を考えているのか、どう思っているのか分からなくなった。
私は毎日いるわけではない。
私は普段母方の祖父母の家にいて、たまにきては顔を見つめるだけだ。
兄弟たちは意思疎通のできない父が寝たきりでそこにいることが日常になっていた。
義理の母は兄弟たちの面倒を見て、義理の両親にあたる祖父祖母の世話をし、稀に顔を出す義理の息子に飯を食わせて夫の看病をしていた。
昔も今でも思うことだが、とてもできることじゃない。
しかも父ははっきりいって碌な人間じゃなかった。
私は父が寝たきりになったのは自業自得だとさえ思っていた。
兄弟たちは幼すぎて父の寝たきりになる前の姿を知らない。
酒を飲んで暴れてゲンコツをして、母にも手を挙げていた。
恐らく義理の母にもそうしていたはずだ。
父の良い思い出をどうにか探そうとして出てくるのは、インスタントラーメンを作ってくれたことくらいだ。
それも私に作ったのか自分用に作ったのかさえ定かではない。
あとはまぁなんかウサギを捕まえてきたり、ヒヨコを持ってきたりとかあったかもしれないが、父から直接貰った覚えはない。
ただ急に父の捕まえてきたものとしてウサギやヒヨコがいたというだけだ。
父は大変祭り好きだったらしく、父方の家には祭りの半纏を着た父の写真がいくつも飾られている。
その中には私の写った写真もあるのだが、特に記憶にない。
酒と祭りが大好きだった父とは対照的に私は付き合いでしか酒を飲まず、祭りは夜店にしか興味のない人間になった。
とにかくこういう状態なので、私が父をわざわざ避けて生きる必要はなくなった。
そうして17歳になった私はバイクを乗り回し、信号無視の車に跳ねられて左足を失った。
私が事故にあったことや片足を失ったことを父はどう思っていたのか、それを知る術はない。
あるとき叔父が私に聞いてきた。
「お前はあいつの喉を見ることができるか?」
父の喉には穴があけられていて何か機器をつけられていた。
何のためについていたのかは知らないがそれは定期的に掃除をしないといけないらしく、義理の母はよく掃除機のようなもので掃除をしていた。
叔父は柔道経験者で肉体労働をこなし体が大きく短気だった。
子供の時は父の次に苦手なタイプだったが、自分が大きくなるにつれ、この叔父とはどんどん分かりあえていったように思う。
私が何も答えずにいると、叔父は一人で答えを返してきた。
「俺にはできない」
私はそんなことを考えたことがなかった。
そもそもしようとすら思わなかったから、できないという叔父の気持ちに近しいものが自分の中に存在していないことがわかった。
何か、大事な感情が自分に欠けている気がした。
思い描いていた自由への脱出計画とは違ったが、私の左足に義足がついて歩けるようになると私は一人で抜け出して好き勝手に生き始めた。
その頃にはナミヘイ祖父も曾祖母も亡くなっていて、祖母が一人で多感な年頃の私を引き留めるのは無理があった。
社会の厳しさに打ちのめされながらもなんとかかんとか生きていた私のもとに父危篤の連絡が入ったのはいつだったか。
新幹線と各駅停車の電車を乗り継ぎ、父方の家に着くと、父は今しがた息を引き取ったと聞かされた。
間に合わなかったのだ。
けれど、間に合っていたとして何かできたろうか。父はもうずっと何の意思疎通もできない体だった。
葬式をして、父を火葬場に連れて行ったとき、兄弟たちが大きくなっていたことを実感した。
私は自分が生きることに精一杯で、この田舎に帰ることがどんどん減っていたから。
弟も妹もぎゃんぎゃん泣いていた。
私が手を伸ばすと兄弟たちはしがみついてきた。
年頃になって、小遣いをせがむ以外の会話がなくなっていたので、お金以外のことで何かしてあげられるのを嬉しく思った。
同時に自分が泣いていないことに気づいた。
私の記憶にある父はあまり良いとは言えない。
兄弟たちは父の以前の態度を知らない。
その差だろうか?
「俺にはできない」といった叔父のような感情が自分にはない。
もしかしたら自分には愛情と呼べる本来人間の持つべき大事なものがないのではないだろうか。
自分が寝たきりになったとき、息子が近くで車に跳ねられたら、私はどうにか体を動かしてその運転手に殴り掛かるだろうか。
恐らくそれに近い行動はするだろう。
だけど、その時持つ感情は父のそれと同じかと言われると自信がない。
葬式が終わって、父のいない新しい日常がやってきた。
相変わらず私はたまにしか帰らなかったが、義理の母や叔父との付き合い方は私の成長に合わせて変わっていった。
叔父は私を子供ではなく大人の甥として接するようになり、私も又、叔父を短気なオヤジではなく叔父として見れるようになっていった。
そうして昔話をすることもできるようになっていった。
例えば、あのロクデナシの父親のどこがよかったのか?
兄弟たちのいない間に義理の母に聞いてみた。
父は酒がないときは借りてきた猫のようにおとなしく、とても人当たりのいい人だったのだという。
全くそんな記憶はないが、義理の母がそういうのならそうだったのだろう。
続けて、「子供が大好きだけど、愛情表現がとても下手で悩んでいた」と言った。
それは、そうかもしれない。
自分は父に愛されていたのかもしれない。
病院で『とまってけ』と父はいった。
私は断ったが、父は本当に私にそばにいて欲しかったのだろうか。
だったらもう少しうまくやっていればよかっただろう。
誰かに好かれたいのなら、その努力が必要だ。と私は思う。
それは例え実の親子であろうとも必要なことだ。
そうなんだろうか。
それが私の欠けている何かのような気がした。
何かを得るためには努力が必要だ。
愛情を注ぐには、注がれるには、そのための努力が必要だ。
だけどそんなもの、父にも、義理の母にも、私以外の誰にも必要ないんじゃないだろうか。
父はどんなに私に嫌われようと、嫌われるような態度を父自身が取ろうと、私に対する愛情は消えなかったんじゃないだろうか。
私は父ではない。
だから本当のところは分からない。
けれど、そんな気がする。
どうすればそれを得ることができるのだろう。
今、私自身が父になっている。
息子に対する私は、私の父を反面教師にしたような感じだ。
それが良いか悪いかはわからない。
ただ、私の息子に対する愛情は父と同様のものであると願う。
今回父を思い出すきっかけをくれた動画に出ているALSの方達に感謝の言葉を送らせて頂きたい。
コメント
コメント一覧 (2件)
頭が悪い
まじめに仕事をしてください。
コメント内容は厳しいですが、個人のただの回顧録を読んで下さってありがとうございます。